ヤマカンです。今回は名古屋アサヒ歴史区分②【事業団時代中期:渡合・仲間&合同キャンプの始まり】の話をさせていただきます。

この事業団時代中期の始まりは、1971年から73年にかけて伊藤信三さん加古善英さんのコンビで行ったシフトチェンジでした。キャンプ場は自前からレンタルへ、対象は不登校、障害児を主軸に据え、キャンプを通してノーマライゼーションキャンプの実践を通して提起しました。これが今のキャンプにつながっていきます。

 

1970年(昭和45年)に10年間開設した梶島キャンプ場を閉鎖し、当時の学生と職員はキャンプ場を探し求め、1971年(昭和46年から)岐阜県加子母村(現中津川市)の渡合野営場を使い始めました。

1972年(昭和47年)、東京から名古屋事業団に事務局長として戻ってきた伊藤信三さんは、キャンプ担当者の加古善英さんとともに、名古屋のアサヒキャンプ事業のコンセプトを「社会的に支援を必要とする子どもたちが楽しむキャンプ」として、対象者を絞り込んでいきました。

半田市にある施設、ならわ学園とのご縁が発展し、1972年、愛知県下の児童相談所とタイアップして「情緒障害児キャンプ」を立ち上げています。情緒障害という言葉は、子どもの状態を示す言葉で、不登校の子や自閉症の子どもたちも含まれていました。

1971年、国連の「知的障害者権利宣言」があり、ノーマライゼーションが大きく叫ばれた時代です。名古屋事業団では、これまで行ってきた「少年少女キャンプ」を発展させ、障害のある子とない子を同じグループにして、キャンプを楽しもう、と方向を変え、1973年(昭和47年)からは「障害児健常児合同キャンプ」を始めています。

障害のある子2人と障害のない子3人が一緒のグループで3泊4日、寝食を共にする活動で、どちらもとても先駆的な活動でした。このグループ編成にも、伊藤さんや加古さんの考え方が大きく反映されているのだと私、ヤマカンが知るのはずっとずっと後のことです。

この1971年1973年にかけてのシフトチェンジが現在のキャンプの出発点だと思います。